読書

博士の愛した数式

博士の愛した数式

数学と聞いただけで皮膚の下に虫が這うような、嫌な気分になる。そのくらい数学や数字に弱い私は、長いことこの本を積んだままにしていました。けれどそれは先入観でした。読まなかったのが勿体無いと、読了後の今は思います。けれども、休前日の夜、時間を気にせずに、心穏やかに読むことができて、今はよかったと思います。
家政婦とその息子、そして博士の物語。なのだけれど、博士の義姉が、物語に登場する場面は少ないものの、重要な位置を占めています。家政婦の息子は私生児で、母子家庭です。博士は記憶障害があり、記憶を80分しか維持できません。博士は人ごみが苦手。他人との会話は主に数学の話、なのだけれど子どもは大好きで、子どもには、大甘です。博士はあだ名ではなく、本当に数学の博士号を取得している本物の博士です。博士の関心事は数学しかありません。それと、阪神。しかも記憶を欠落している博士は、江夏が大好きで彼がまだ現役だと信じたまま疑いません。
博士は子どもが好きなのだから、博士と家政婦の交流は、息子を通して行われるのか?と言えばそうではありません。確かに3人の交流がメインに描かれていますが、家政婦と博士の間にも友情は存在するのです。それは、息子がキャンプに行ってしまった日の夜の出来事に描かれています。
この本の前に『喫茶店で2時間もたない男とはつきあうな!』を拾い読みしました。著者の一人である齋藤孝は人と人とのコミュニケーションを円滑にするための手段として「偏愛マップ」の活用をすすめています。「偏愛マップ」とは「A4か、B4くらいの大きさの紙を用意して、そこにその人の「かたよるほど愛してやまないもの」を書いてもらいます」というものらしいです。それをお互い見せ合うことで、会話が弾み、コミュニケーションがうまくいく、というものだとか。
この手段の是非はともかく、『博士の愛した数式』という作品は「偏愛マップ」式コミュニケーションのやり方と対極にあるものだと感じました。家政婦とその息子と博士の間には、「偏愛マップ」で重なり合うような部分は何もありません。「偏愛マップ」式に行けば、この3人の間にコミュニケーションが生まれることはないということになってしまいます。けれども彼らの間には、博士が記憶を80分しか維持できなくて、毎日「初めまして」になってしまうとしても、確かに友情と呼ばれるものがあるのだと思います。
最後に、10歳だった息子が22歳になり、博士と面談する場面が描かれています。博士は大人と子どもの扱いに極端な差があります。子どもは子どもというだけで、博士にとっては何をしても許される存在なのです。けれど、22歳はもう子どもと言える年齢ではありません。それでも博士は彼を子どものように扱い、今までそうしてきたように、彼の平らな頭をなでます。記憶を維持できなくなった博士なのに、ここは矛盾していると最初は感じました。けれど、このことが、博士と家政婦と息子との間にあったものを証明しているような気がしました。