「他人をコントロールしたがる人」について、最近考えている。
話し合いで議長になったり、企画を立てたりすることが好きな人。その人の手元ないし頭の中にはシナリオがあるだろう。コントロールする大勢をレールに乗せて動かすためのシナリオ。
一方、コントロールされる側になる大勢はどうなのか。その大勢は、コントロールされることは嫌いではないと思う。誰かの企画に乗っかって、何も考えず、その場所に行って、行われていることを享受すればよい。ただ、大勢は、「完全に」コントロールされることは潔しとしないのではないか。
つづき。コントロールされる側は、シナリオの存在が見えると、白けてしまう。この場でどのような話の流れになろうとも、結論は用意されてるのね?という風に。だから、コントロールする側は、それが見えないように誘導する。それが上手な「コントロールする人」である、と思う。
私は、上手な「コントロールする人」を少なくとも一人知っている。その人は一切「コントロール」を感じさせなかった。今思えば、相当の部分で誘導されていたのだと思うが、それは心地よく、むしろ、そのままそのレールに乗っかっていたいと思わせるものだった。その方法はその人の無意識なのか、かなり意図的なものかは分からない。どちらにせよその人は人の上に立つこと(議長という意味で)に向いている人なのだろうと思った。
一方、コントロールを感じてしまう人も知っている。前者に比べてその人が下手だと断言するつもりはない。何故ならコントロールの方法は一つではないから。けれど、前者と比べるとどうしても「白ける」感じがすることは否めない。
結論は出ないがひとまず終わる。