「ヘリオテロリズム」Vol.1感想

今頃Vol.1かよ!・・・すみません。総括的な難しい感想はとても述べられないので、感受性のままにわがままに、行きます。
まず、一番好きなのは鈴木知友さんの「落し物を届けに行こう」
これはじーんと、来ました。読んでいる途中は、枚数の割りに登場人物や設定の説明が長いと感じましたが、それらは全て結末への伏線だった!・・・という言い方はオーバーかもしれませんが、ラストの切なさ倍増です。
根子さんの「スライド」は書き出しから読者を引き付けます。引用するのも勿体無いから是非実物をご覧下さい。冷めた文体と非現実的な出来事がマッチしていて、現実(?)と、心の中に、不思議な空間を齎します。
西東ノブさんの「ヒット・パレード98-89」は、私と同世代かもう少し上の方でしょう。その世代には思わず「にやり」とさせられる記述満載。小気味良い文章が達者に並んでいます。けれどこれらはただの装飾ではなく、物語に繋がっていきます。余計な描写はないのに不思議にリアル。そんな小説です。
丼原ザ★ボンさんの「百億の秋に、千億の愛を」。・・・これはとても難しいのですが、倉橋由美子の雰囲気を感じました。単純に言えば「登場人物が記号化されている」というアレです。
曽良圭さんの「輪唱ラヴソング」。悪い意味でなく、文体がラノベ的。冒頭で読者を引き付けるのは根子さんと同様。一人称の入れ替わりがあり、そこで終わればラノベなんでしょうけれど、最終章で崩すのが、本当はやりたかったことですか?これは後でも書きますが、書き手が文章とビジュアルとどちらを浮かべて書いているかと想像したとき、曽良圭さんだけは悩みます。多分両方だと思うから。日常を描いているようで妙に現実感・生活感のなさがあるような気がしていましたが、最終章でそれを浮き彫りにしたと考えればいいのかな。ごめんなさい、実はよく分かりません。
いづるさんの「ドラウナーズ」と松本楽志さんの「時刻表」は対照的な物語だと思う。前者は内面的であり、後者はビジュアル的。「時刻表」は短いフィルムの物語。多分、作者の中に映像があり、それをノベライズ化した印象。徹底的に内面は描かれない。「僕」「少女」「K」が登場するが彼らの内面は不明。ただ彼らの行動のみが描かれる。視点はカメラ。私はビジュアル的に物語を捕らえることが酷く苦手なのでコメントは控える。「ドラウナーズ」は柳美里の「タイル」と似た臭いがした。
秋山真琴さんの「メタ探偵の憂鬱」。いっそ、説明を排除して「書きたいことだけ書く」ことに徹底してしまったらどうか。(読者を想定しない書き物は甘美な誘惑だけれどもそれに従ってはいけない禁断の果実だろうか)
近田鳶迩さんの「キセキ」。ミステリ読みの性だろうか。ディティールに捕らわれてテーマを掴みづらかった。読者があれもこれも関係あるような気がして情報を拾ってしまうことがいけないのだろうけれど、それらは作者のサービスに過ぎないんだろう。本質は別にあるんだけど、私はまだそれを理解できないでいる。