元派遣、再就職に“心の壁”…「接客苦手」職種にこだわりも

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090112-OYT1T00003.htm?from=navr

9年間、愛知県や静岡県の自動車工場で働いてきたから、自動車関連の仕事ばかり約30社に応募してきたが、雇ってくれるところはなかった。昨年末、ホテルの住み込み清掃員に採用が決まりかけたが、「給料が安く、将来につながらない」と断った。「自分は人見知り。営業や居酒屋の店員などは難しい」と今も自動車関連の仕事を探し続けている。


(2009年1月12日03時09分 読売新聞)

このニュースに関しては色々な意見があると思う。私も色々なことを考えてた。うまくまとまらないけれど、覚書を兼ねてつらつら書いておこうと思う。

自動車の部品として使い捨てられてなお、自動車関連の仕事を探し続けるこの人は、ある価値観の犠牲者なのかもしれないと思う。ある価値観とは、特に男性に多いけれど、「○○会社で働いている(いた)自分」という事実(価値)に非常に重きを置くということ。終身雇用制度の元で会社に忠誠を尽くした会社人間の成れの果てだ。これが、うまく機能していた時代はそれでよかったのかもしれない。けれど、今はそういう時代じゃないんじゃないか?と思う。

何故、企業は非正規労働者正規雇用しないのか?それはいざとなったら雇用を打ち切るためだ。そんなことは小学生でも分かる理屈だろう。仕事に生きがいを見出すのも一つの生き方であり、それを否定するつもりはない。けれど、非正規労働者がその生き方をするのはあまりに危険だと思う。非正規労働者にも非正規労働者なりのプライドがある。それは、不安定雇用なのに会社に尽くし、使い捨てられてもなお元の会社(分野)にこだわることではない、と思う。

労働は対価のためのものと割り切り、仕事以外のことで自分を語るように生きていけないだろうか?

価値観を変えることは難しい。歳を取ればなおさらだろう。けれど、会社という得体の知れないものに「不要」と言われて、それでも縋り付くくらいなら、別の生き方を模索するのもありなんじゃないか?

話が飛躍するかもしれないが、これは教育の罪であるかもしれないと思う。小さい頃から「何かを目指せ」と言われ続ける。けれど多くの人はそれを見つけられないまま(もしくは目指したものの挫折して)大人になり就職する。その頃には何かを目指すことなど誰も問いてはくれない。何も考えないまま目の前の仕事を「目指すもの」にすり替え、定年まで勤め上げる会社人間の出来上がり。

生きがいを仕事とイコールで結んでしまうのは何故だろう?そのイコールさえ外せば、とても楽に生きられるんじゃないかと思うのに…。


追記・何でこのニュースのことを書こうと思ったのか、思い出した。ユーキャンのweb広告に書いてあった「私にしかできない仕事がしたい」*1を見たからだ。これを見て「んな仕事はねぇ!」と画面の前でツッコミを入れたんだった。その人にしか出来ない仕事なんて、皆無とは言わないがとても少ないと思う。そんな倍率の高いものを目指すより、私にしかできない仕事以外のものを見つける方が余程楽だし、楽しいんじゃないかと思う次第。どうだろう?