『人間失格』(太宰治)のこと。

Q.『人間失格』の冒頭の文章を述べよ。

A.「恥の多い生涯を送って来ました」→×

正解は、「私は、その男の写真を三葉、見たことがある」


何かと話題になっている『人間失格』だけど、この作品が太宰の遺書的な読まれ方をするのはどうなんだろう?と思う。この作品は「私」が「その男」の写真を解説する場面で始まり「この手記を書き綴った狂人を、私は、直接には知らない」から始まる「あとがき」で終わる。つまり、太宰の遺書とされる『人間失格』は作中作の構成になっているのだ。この作品が真実太宰の遺書であるならこの構成は必要なかったはず。今、『直筆で読む「人間失格」 (集英社新書 ビジュアル版 11V)』をつらつら読んでるんだけど、読みながら思うのは、作者が、この作品が遺書として読まれることを想定した太宰自身による自己演出であるということ。「そう読まれるべく最大の演出を施した作品」それが『人間失格』なんじゃないかと、思う。死すらも、彼による彼そのものへの演出だったんじゃないかという気がしてくる。あーうまく言えないな〜。