ある特定の本関する書評(感想)を求めることと、なんとなく書評(感想)を読んでみることは全然違う。

書評(感想)で表記したけれど、前者は感想、後者は書評が求められる気がする。

本をよく読めている時、そしてたまに感想を自blogに書いたりしていると前者の「特定の本に関する大勢の感想」が欲しい。これ読んだ人、どう思ってるの?とかここ気になったんだけど私だけ?とか。それを踏まえたうえで感想をアップしたりする。

だけど、思うように本を読めない時は他人の感想文を読んでもつまらない。本を読んでいないから当然自分でも書けない。すると「読み物として面白い書評」を求める。対象の本は何でも構わないし、むしろ、自分から遠い(自分が普段読みそうにない)ジャンルの方が面白かったりする。書評を読んで、元の本を読んだつもりになったりする。

本屋で出版社が出してる無料配布の冊子を読む感じ。あれは「この本を買わせよう」という動機で書かれている書評だけれど、それだけじゃアレだから(一応)読み物として面白いものになってる。

最近の私は書評を読み物として読んでる。時間があれば元の本に当たりたいけど、圧倒的読書量を誇る書評家(プロアマ問わず)と私では、同じ本を読んでも受け取れる情報量が違うから、だったら書評を読んだほうがオトク。

これで私の携帯がパケ定になったら本は読まなくなるかもしれない。読んだとしても、それは、ネットその他の書評には全く影響されない、究極的に能動的な読書になるかもしれない。