blogを書くということとそれに共感/反発するということ

自分にとって衝撃的な出来事が起きた時、それを誰かに語りたくなる。美味しいものを食べたとか、面白い本を読んだとか、トリビアなことを知ったとか、いろいろ。
けどこの「衝撃的」なのは誰に?というのが問題で、多くの人に共感してもらえる内容ならある程度相手を問わず語ることが容易だけれども、そうでない場合は語りたい衝動を身内に抱えつつ悶えるしかない。
でもそれは今は昔。今はblogという手段がある。匿名掲示板でもよい。
昔語りになっちゃうけど、昔は、ネット上に何かをアップするということは、大げさに言うと「覚悟」が必要だった、と思う。有名人でもない、知識があるわけでもない、特別に文章が上手なわけでもない、そんな私が世界中で閲覧可能なコンテンツをアップすることに意味があるのだろうか?…とまぁそこまでは考えなくても、「語りたい」という衝動とネットという手段を前にしてその敷居の高さに戦いていた時期があった。
今は、その敷居はかなり低くなった、と思う。独り言のような意味不明の繰言をアップすることに全く抵抗がなくなったと言えば嘘になるけれど、今はSNSなど手段も増えたことでまぁいっか、と思えるようになってきた。この感覚は、ある程度誰でもあると思うけど、ネットデビューした時期によっても違ってくると思う。
例えば電話が普及し始めた黎明期に「ただおしゃべりするための電話」をかける人はいなかったと思う。電話を使って連絡をするのは用件を伝えるためであってそれ以外はなかった。けれど今は「もしもし〜」「どしたの〜?」「ちょっと暇でさー」という電話を受けることもかけることもあるだろう。
それと同じで、「自分」が「衝撃的な出来事」に遭遇した時にそれを条件反射でネット上にアップする。それが珍しいことではなくなったのだと思う。
けれどネットは電話と違い、その多くは全世界の人の目に晒される。すると、それを読んだ人の中には「そんなのみんな知ってるよ何言って(ry」という感想を持つこともあり得るだろう。更に、書き手及びそれに共感する人と反対する人の間で対立が起こることもあるかもしれない。その対立の根本に、両者のネット上にアップすることに対する敷居の高さの認識の違いがあることを考慮すると、炎上を避けられる場合もあるのかもしれない、と思った。*1

*1:蛇足。まぁつまり「自分のblogに好きなこと書いて何が悪い」「つまんねーこと書いてんじゃねーよカ(ry」という対立。でもこれは永遠の対立かもしれないとも思う